誰が僕らを創ったの2008-10-22 Wed 19:40
ニール・D・ウォルシュの「神との対話」に登場する神は、少なくとも人間存在を理解しているはずの神です。だから我々が生きていくための指針を、細々と指南してくれるのは、当然と言えば当然です。それもそのはず。彼は、我こそが人間を生み出したのだ、と公言しているのですから。「自らを経験的に知るために人間を創造した」とまで主張する彼には、当然人間を正しく導く使命もあるでしょう。
一方で、「奇跡のコース」でイエスが言及する神は、少なくとも「神の一人子」を誕生させた、というところまでは認めているようですが、「人間存在」を生み出した、とまでは読み取れません(こういう言い方になるのは、神の一人子がイコール人間存在ではないと考えられるからです。つまり直接的な親子関係ではなく、神の子から段階を経て、人間存在へと形作られていく行程があるのではないか、ということです。)。しかし少なくともイエス自身は、この神を「父」と呼んでいます。イエスの神は、僕たちにとっても父なる神でしょうか。イエスの神が僕たちをも生み出したのでしょうか。 そしてもう一方、ニサルガダッタ・マハラジは「I AM THAT」において、わたしは「わたし」以前に存在するものを知ることはできないと語っています。「わたしを神が生み出した」ということも、わたしの中のひとつの概念であって、ある概念として捉えられるものが、わたしより先に存在しうるということはありえない。したがって神という概念も僕達の想像の中にあるのであって、それは実在するものではないのだ、ということになります。この理屈から言えば当然「神が人間存在を生み出した」ということもひとつの概念に過ぎません。 § 二年ほど前に一度グノーシス主義について日記に書いたことがあります。その頃「ダビンチ・コード」という小説が映画化され話題になりました。正統派のキリスト教会はイエスの真実を封印しているのだ、とかいったところから、聖杯伝説なんやらもモチーフにして創られたストーリーだったのですが、この小説でキリスト教の隠された歴史に興味を持つようになって、そういったことから僕はグノーシス主義なるものに辿り着きました。 ちょうど同時期には、エジプトで発掘されたグノーシス主義のものと思われる古文書の解読が終わり、それは「ユダの福音書」として発表されました。にわかにグノーシス主義に興味をもつようになった僕のような者も含めて、多くの人が、キリスト教史において何か新しい展開が生まれるのではと、どちらかといえばスキャンダラスな進展に注目したのではないかと思います。 あの二年前の盛り上がりも今は昔といった感じです。その頃に入手したグノーシス主義の入門書も、グノーシスのテキストとしては特に有名な「トマスの福音書」も今は手元にありません。ところが最近になって、違う形で再びグノーシスに出会うことになりました。ゲイリー・レイナードという人の本に登場するアセンデッド・マスターの過去世が、実は、なにを隠そう、あの「トマスの福音書」を記したトマス本人だ、というのです。 ゲイリー・レイナードの二冊の著書「神の使者」と「不死というあなたの現実」は、トマスの未来世が語っているという点で、グノーシス主義の思想を反映していると考えられるのですが、そうなると、このアセンデッド・マスターが、ゲイリーの著書を通じて今伝えようとしている「奇跡のコース」の内容が、反グノーシスであるとは考えにくく、そうなると、その「奇跡のコース」を伝えたといわれるイエス・キリストの考えそのものが、そもそもグノーシス主義的なのではないかと考えられるわけです。「ユダの福音書」が伝えるイエス像もまんまグノーシス主義者でした。それが本当にイエス本人が語った言葉なのかということは、勿論、今となっては確かめようがないものの、しかし、イエスの思想がグノーシス主義と無縁ではなかった、ということは、充分考えられます。 § 既に手元にグノーシス関連の本がないので、今回主にウィキペディアで情報を集めたのですが、改めてグノーシス主義の神話に触れてみると、これが、どうして、なかなか面白かったです。「神」という概念を、当座整理するのに役に立つのではと思いました。ニール・ウォルシュの「人間を創った神」。イエスにとっての「父なる神」。その、どうやら異なる存在では、と思われる「神」を内包し、尚かつ、ニサルガダッタの指し示す「実在」が持つ性質までを説明しうる神話体系を、このグノーシス主義の神話が持っている、と思いました。以下要点をまとめてみます。 最初に取り上げるのは「デミウルゴス」あるいは「ヤルダバオート」です。簡単に言うとデミウルゴスは役職名、ヤルダバオートは固有名詞として使われている言葉なのですが、これがどんな存在かと言いますと、 グノーシス主義は、悪であるこの世と善である永遠の世界を対立させて考える二元論宗教である。悪の世界すなわちこの世は物質の世界であり、善である超越的世界はプラトンの概念ではイデアの世界に当たる。 プラトンは『ティマイオス』の中の物語で創造者「デミウルゴス」がイデア界に似せて現実界を創りあげたとした。 デミウルゴスのギリシア語の原義は工匠、建築家である。イデアを見て、模倣しながら現実界(物質世界)を作る存在として、デミウルゴスを登場させる(善なる存在と捉えられている)。現実界はデミウルゴスが創造したイデアの似姿である。 グノーシス主義は、何故、悪である物質世界が存在するのかを説明するため、『ティマイオス』の創造神話を援用し、愚かで傲慢な下級の神であるデミウルゴスが不完全な世界を創造した為であるとした。 プラトンのイデア思想は、どうやらグノーシス主義の思想に、大きな影響を与えているようです。デミウルゴスと称される存在は、要するに職工です。これは役職名のようなもので、個人名ではないということですが、なんにしてもこの世を創造した存在がこのデミウルゴスであるということです。 グノーシス主義では、『旧約聖書』に登場するヤハウェと名乗っているデミウルゴスを、固有名で「ヤルダバオート」と呼んでいる。『イザヤ書』において、ヤハウェは「我は嫉妬深き神なり」とか「我こそは唯一の神である」などと傲慢な宣言を行っているが、こうした悪しき行いや傲慢を誇示しているのは、「偽の神」「下級神」たるヤルダバオートであるとした。 愚劣な行為を行い、傲慢を誇示しているとは随分な言いようですね。プラトンはデミウルゴスを善なる存在として捉えていたそうですが、グノーシス主義者たちは彼を徹底的に悪者扱いしています。それもそのはず。グノーシス主義者にとってこの世は悪なのであり、その世界を生みだした張本人こそがヤルダバオートと呼ばれるデミウルゴスなのですから。 「偽の神」「下級神」とありましたが、ヤルダバオートを説明する言葉にもうひとつアルコーンというのがあります。 アルコーンとは、グノーシス主義における低位な神的存在の名称であり、「偽の神」のことである。この名称は、古代ギリシアのポリスにおける最高執政官の称号と同じで、「世俗的権力者」という意味が込められていると考えられている。 アルコーンは非常に多数が存在すると考えられているが、そのなかでも第一のアルコーンは、「この世の創造者」すなわちデミウルゴスのことで、彼より諸々のアルコーンが派生したとされる。 「この世」と「人間」を創造した第一のアルコーンが、傲慢で低劣な存在であった為、彼が創造した世界も人間も不完全なものであり、それ故、物質の世界であり、崩れ、壊れ、人間には死の運命が定められた。この世の「悪」の原因は、アルコーンの低劣さと傲慢さにある。 ここまで否定的に言われると、なんだかヤルダバオートを援護したくもなってきます。なにしろヤルダバオートとはヤハウェのことなんですからね。ヤハウェ。ユダヤ教にとっての唯一神ですよ。ということはユダヤ十二氏族の一部、東方へと移り住み、最終的には極東の地日本へと辿り着き、そこに大和朝廷を築いた人たちの神であり、それはつまり天皇家が連綿と守り続けてきた日本神道の神であり、てことはクニトコタチノミコトなのであり、ウシトラノコンジンのことである、ってことなんですよ。その御方を傲慢で低劣であるとは、いやはやちょっと口にするのが憚られます。なんだかんだ言っても、僕だって日本人として生まれて来たんですから。やはりこの神様は敬慕していますし、立派な存在として別格視しているつもりではあるんですから。そうそう、このあいだも書きましたけど、僕はこの存在をルシフェルと同一視していまして、しかもそのルシフェルを、さながら愛の神の如く考えているので、たとえ低級な神であるというのが実情だとしても、敬う気持ちを捨てる気にはなれないわけです。 なんて、ま、それはともかく、その低劣で傲慢なアルコーンに対して、今度はアイオーンという言葉が登場します。 アルコーンに対比されて、超越的天上界に位置する諸アイオーンが存在する。アイオーンはグノーシス主義における「真の神」であるが、グノーシス主義では、通常「神」とは呼ばない。「真の神」とは、あくまで「偽の神=アルコーン」と対比するときに使われるだけである。 ということは、そもそもグノーシスでは「神」と呼ばれている者は低級な存在であると考えられているわけです。イデアの世界を創造した存在を、グノーシス主義では「神」とは呼ばない、ということらしいです。 「アイオーン 」は古典ギリシア語では「ある期間」とか「時代」を意味するが、プラトンの用法で「永遠」の意味も含む。アイオーンは擬人化され、あるいは神格としても扱われ、こうして「アイオーン 」は「永遠界」のような世界・圏域の意味、「超霊的永遠的存在=霊的原理」などの神格・霊格的な意味など幾つかの意味を持つようになる。(この箇所はミランダさんのサイトから引用しました) イデア界に当たる超越的な世界は、アイオーンから構成されるプレーローマ世界というが、人間はプレーローマに起源のある「霊(プネウマ)」をうちに持つ存在であるが故に、グノーシス(智慧)の認識を通じて、永遠の世界へと帰還し救済されるとした。 順序が逆になったかもしれませんが、ここでグノーシス主義神話を特徴付けるものを説明した箇所を載せておきます。 1966年の「グノーシス主義の起源に関する国際学会」等の定義によれば、グノーシス主義は、以下の点をふまえた神話を創作することが一般であると考えられている。 「真の神」であるアイオーンのいる世界はプレーローマと呼ばれます。人間存在は劣悪な神によって創造されたのですが、その心の中には、プレーローマ界のアイオーンに由来するプネウマ(魂)が秘められているというわけです。
グノーシス主義の定義の三番目(人間に「本来的自己」を認識させる啓示者・救済者の存在)が、キリスト教と結びついて、以下のような解釈が生まれてきます。 キリスト教グノーシス主義では、人間に「本来的自己」を認識させる啓示者・救済者とは、もちろん「イエス」であり、イエスは「父なる神」(=至高者)の下から派遣され、旧約聖書の創造神(=劣悪なる造物主)の束縛から人間を解放するため、「本来的自己の認識」を説く福音をもたらしたという神話を持つ。 これで、イエスが父なる神と呼んだ存在は、「この世を創造した神」ヤハウェではなかったということがわかりますね。 次は第一のアルコーンであり、デミウルゴスであるヤルダバオートと呼ばれたヤハウェがどのように誕生したかを説明しているソピアー伝説についてです。 アイオーンの一人であるソピアーはプレーローマにおける最低次のアイオーンであったが、知られざる先在の父プロパトールを理解したいという欲望に取り付かれた。彼女はこの欲望の故にプレーローマより落下し、造物主デミウルゴスを生み出した。デミウルゴスはかくて、この世と人間を創造するのである。 幾つかの情報を統合して経緯を説明しますと、ソピアーは、先在の父と同じように自分自身の影像を発出したいと考え、他のアイオーンの承諾を得ずに、ひとりでこれを行ったのですが、生まれてきた子供は、自分とは似ても似つかない存在だった。ソピアーはこれを恥じて、他のアイオーンに見られないようにと、プレーローマからこの存在を追放してしまった、というわけです。 しかしこのようにして生み出された、ソピアーとは似ても似つかなかったデミウルゴスとて、アイオーンであることには変わりなく、先在の父、至高者プロパトールから受け継いだ力によって、自らの世界を生み出すに至る。それがこの世界であるということになります。 グノーシス神話の定義の二つ目に出てくる「至高者に由来する要素」、つまりプネウマが、なぜデミウルゴスによって生み出された人間のうちにも存在するのかということも、これでわかります。いかに劣悪とはいえデミウルゴス自身も、至高者に由来する要素を受け継いでおり、そのプネウマをデミウルゴスが人間に与えたからです。神話によれば、アイオーン達にそそのかされて、うっかり与えてしまったのだそうですが。 そういうわけで、天地創造の神にも、実は生みの親がいた、というのがここまでのストーリーです。 さて、グノーシス的色彩の濃いと思われる「奇跡のコース」。これを伝えたといわれるイエス・キリスト。当時のグノーシス主義的考えを持った人たちと、イエスと、どちらがどちらに影響を与えたのかはわかりませんが、イエスの語る「神」が、このデミウルゴスでないことは、ほぼ間違いないようです。イエスが「我が父」と呼んだ存在は、ヤハウェではなく、ここで云う至高者プロパトールのことだった、ということになるでしょう。 グノーシス主義におけるアイオーンは、高次の霊または霊的な階梯圏域で、アイオーンこそが「真の神」である。アイオーンは複数が存在し、プレーローマと呼ばれる超永遠世界にあって、男性アイオーンと女性アイオーンが対になって「両性具有」状態を実現している。 アイオーンの筆頭に来るのは「プロパトール」であるが、この名は「先在の父」とも訳され、超越性の更に超越性にあるとされる。プロパトールとは何かは、人間は無論のこと他のアイオーンもまた、それを知ることはなかったとされる。プロパトールは、ビュトス(深淵)の名でも呼ばれる。 至高の存在はプロパトールと呼ばれていました。彼と対になる女性性のアイオーンはエンノイアと呼ばれますが、これはプロパトール自身の似像であり、自己観照によって認識した自己の姿だと言えると思います。 すると彼の「思考(エンノイア)」が活発になって現れ出た。[······]これがすなわち万物の完全なる「予見(プロノイア)」、光、光の似像、見えざる者の影像である。それは完全なる力、バルベーロー、栄光の完全なるアイオーンである。(「ヨハネのアポクリュフォン」より) 彼女は、すべてに先立つがゆえにあらゆるものの胎であり、<母=父>であり、聖霊でもある。至高の父が、自分の霊を包む純粋な光にあってバルベーローを見つめると、その火花によって彼女は身ごもった。これが、<母=父>の独り子で、彼が唯一「生み出した」ものであり、父の独り子であり、純粋なる光であり、「アウトゲネース」と呼ばれる。(この箇所はKOINONIAさんのサイトからの無断引用です) <神の一人子>の誕生です。ここではアウトゲーネスと呼ばれています。これは同じ「ヨハネのアポクリュフォン」のなかで、キリストと同一視される存在でもあります。 § 長くなってしまいましたが、グノーシス主義における「神」の立ち位置の確認をしてきました。この世を創造した神、「神との対話」において登場する、自称「神」は、結局、よくても永遠なる世界プレーローマに住むアイオーンのうち、最低次の存在であるソピアーが、先在の父であるプロパトールに似せて生みだそうとして失敗した存在にしか過ぎません。グノーシス主義の神話では天地創造の神よりも、もっと高次な存在がいるわけです。そのなかでも、至高のなかの至高的存在であるプロパトールこそが、イエスが「父なる神」と呼んだ存在だった、ということが確認できたと思います。 至高者の性質、と言ったら語弊がありますが、彼がどういった存在なのかというと、 見えざる霊、不滅性の中に在る者、いかなる視力でも見つめることのできない純粋なる光の中に在る者、欠乏を知らない者、あらゆる者に先立つ者、断定し難い者、記述し難い者、身体的でも非身体的でもない者、大きくも小さくもない者・・・(「ヨハネのアポクリュフォン」より) であるとのことです。認識不能、表現不能な存在。それがプロパトールであると。これの意味するところは、要するに認識できるもの、表現可能なものは、認識するもの、表現するものにとって二次的な存在である、ということなんですね。 これから思い起こされることが、ニサルガダッタ・マハラジが云うところの「実在」というわけなんです。ポイントはこの至高の存在プロパトールによって生み出された存在にとって、至高の存在を知ることはできないというところです。プロパトールは知ることができない存在なのです。これはマハラジが伝える実在の有り様にそっくりです。 ここからが、今回の僕の終着点です。 すべてニサルガダッタ・マハラジの言葉です。 鏡の反映にしか自分の顔を見ることができないように、 あなたは汚れのない純粋な意識の鏡に映るあなたのイメージしか 知ることはできないのだ。 完全な鏡の本性とは、あなたには見ることはできないということだ。 何であれあなたが見ることができるものは、汚れであらざるをえない。 それに背を向け、捨て去りなさい。( I AM THAT p144) 実在を見るという状態はない。 誰が何を見るというのだろう? あなたは実在として在ることができるだけだ。 いづれにせよ、あなたは実在なのだ。 問題はただ精神的なものだ。 偽りの概念を放棄しなさい。 それだけだ。 真の概念など必要ない。 そんなものはないのだ。(p377) あなたが実在ではないものすべてをどこまでも拒絶していくと、 最終的に否定しきれず残されたものにであう。 真理の知識に関する話はすべて無知の印だ。 知らないのだと想像し、それから知るようになるのはマインドなのだ。 実在はこれらの歪曲に関して何も知らない。 創造者としての神という理念さえも偽りだ。 わたしは自己の存在を何かほかの存在に負うだろうか? わたしは存在する。 それゆえ、すべては存在するのだ。(p226) 世界とあなた、どちらが先に生まれたのだろうか? 世界が先だと考えるかぎり、あなたはそれに縛られているのだ。 疑いの跡形もなく、世界はあなたのなかに在り、 あなたが世界のなかに在るのではないとひとたび悟れば、 あなたは外に出ている。 もちろん、あなたの身体は世界のなかに、世界に属したままだ。 だが、あなたはもはやそれに惑わされはしない。 すべての聖典は世界が存在する前に創造者が存在したと言っている。 誰が創造者を知っているのだろうか? 創造者以前に存在したのは、すべての世界とその創造物の源である、 あなたの真我だけなのだ。(p225) 何であれ、宇宙のなかに真実で、高尚な、美しいものがあれば、 それはすべてあなたから現れたのだと自覚しなさい。 あなた自身がその源なのだ。 世界を指揮する神や女神は、もっとも素晴らしい荘厳な存在かもしれない。 それでも彼らは、彼らの主人の富と力を宣伝する、 豪華に着飾った召使いのようなものなのだ。(p323) 観照者としてのあなたなしには神も動物もありえないということを、 日々のあらゆる出来事をきっかけにして思い起こしなさい。 あなたは存在するすべての本質と実体の両方なのだと理解しなさい。 そしてあなたの理解の中に確固として止まりなさい。(p495) § もう語る言葉がないですね。神々の物語は美しくもあり、壮大でもあります。でも、マハラジの言葉から導き出される答えは、「そのなかで語られる至高者が誰なのかと言えば、それがあなたなのだ」ということです。 以前、自分のことを「神」であると宣言してみたことがありました。今回、神の概念をグノーシス神話に沿って整理してみました。そして、これら全てを、楽しい思い出の物語として本棚の隅にでもしまっておけるのでは、というところまで行けたのではないかと思います。 |
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